妖精さんの独り言  1−4

一人の科学者から他の科学者へ


事実の前に幼子のようになって座りなさい。
そしてすべての先入観を捨てて、自然が導くどこいかなる深淵にも謙虚についていきなさい。さもなければ、あなたは何も学ばないだろう。
T.H.Huxley


 私はアインシュタインから始めたが、ミシェルで終わることでしょう。二人とも、私たちに現実、自然、そして世界に関する新しい理解を与えてくれました。しかし、ここで共通性は終わります。アインシュタイン相対性理論(それに加えて、プランク量子力学ベルの定理、ボームの織り込まれた秩序と開示された秩序、多くの世界理論、そしてニューフィジクスに基づく他のすべての現代科学の側面)は、言語によるものではない限界を持つものです。それらは、人間の進化的な知識と、そのなかで彼らが発達させてきた能力によって、限界づけられています。それは、ミシェルの共創的科学が含んでいるような、自然の内化的(物質化的)情報入力が欠如しているのです。


 ヴェルナー・ハイゼンベルグは、次のように書いた時に、その限界を認識していました。「私たちが観察しているものは自然それ自体ではなく、私たちの質問方法に対して曝露された自然なのである」。ウォルフガング・パウリもまた、「現実の非合理性」という言葉を創ったときに、その限界を認識していました。共創的科学には、不確定性原理も現実の非合理性もありません。


 現代科学の限界は、クルト・ゲーデルによって最終的に探求され、はっきり描かれました。ラリー・ドッシー(「魂の回復」)によれば、ゲーデルの不確定性定理は、「最高の学識を誇る数学者たちや論理学者たちによって、半世紀以上にも渡って細かく吟味されてきましたが、矛盾を含んでいることは明らかにされませんでした」。ゲーデルの不確定性定理は・・・


「・・・自然に関する完全かつ矛盾のない全体像を編み出すという、科学者の理念的な目的の核心に打撃を与えます。ゲーデルは、これが為されえないことを示しました。そのような全体像を形成するのに必要な、全てのデータを蓄積するのが技術的に不可能であるばかりでなく、そのゴールそれ自体が絶望的なのです。ゲーデルの定理は、自然の法を示しており、もしそれらが、私たちがそうであると信じているように、首尾一貫しているのなら、私たちがいま知っている何かとはまったく異なる何らかの内的な公式化が必要になりますが、ヤコブ・ブロノウスキーが指摘したように、現在のところ「私たちはどうやって考えたらいいのか分からない」のです。」


 ゲーデルの定理が、科学の共同体によってほとんど無視されてきたことは、驚くことではありません。「現実が見えるままである」なら、人生はもっと単純なことでしょう。そして、それこそがまさにニューフィジクスが仮定していることなのです・・・すなわち、私たちが、自分の意志や意識によって、宇宙のなかの現実、自然、私たち自身、そして他のすべてのものを創造しているというのです。ヘンリー・マルゲナウによれば、「物理学者は、彼の宇宙を発見するのではなく、創造するのです」。そして、C.W.ウィリアムズは、「新しい世界は、新しい心にすぎない」と信じています。


 ゲーリー・ズーカフは(「踊る理論物理学者たち」のなかで)、この人間の手によるヴァージョンの現実が、いかにして製造されたかについて描写しています。

「私たちが本当だと見なしたことが現実です。私たちが本当だと見なしたことを、私たちは信じるようになります。私たちの信じていることは、私たちの知覚に基づいています。私たちが知覚することは、私たちが探しているものに依存します。私たちが探しているものは、私たちが考えることに依存します。私たちが考えることは、私たちが知覚することに依存します。私たちが知覚することは、私たちが信じることによって決定されます。私たちが信じることは、私たちが本当だと見なすことによって決定されます。私たちが本当だと見なしていることが、現実なのです。」


 ドッシーは(「時間、空間、医療」のなかで)このことについて以下のようにコメントしています。
「「現実」によって意味されていることを、科学が私たちのために解決してくれると仮定することは、普遍的で変わることのない間違いです。現代の物理学者たちが、もはや現実に対していかなる要求もしておらず、そのかわりに彼らが考案できる最善の世界の記述、しかも感覚の印象のみに頼った記述を与えることを求めていることを発見するのは、動揺することでしょう。現実の探求は、現代科学のなかでは古臭いものであり、20世紀の到来とともに終わった時代に属するものなのです。」


 現実に関心を抱いている科学者たちは、「宇宙の光がそれ自体を語る」やミシェルと共に働く知性たちの言葉を引用した、他のペレランドラの出版物を読むべきでしょう。賢者には一言で足ります。


 彼らはまた、以下のヒュペリオンによるコメントを、真剣に熟慮するようにアドヴァイスされるでしょう。


・・・「量子力学」として知られる科学のなかには、根本的な「落とし穴」が存在します。科学的な枠組みとしての「量子力学」は、「物事」がいかに作用するかに関する、より偉大な理解を達成するために、人類の意識を拡大するための本質的なステップではあります。その「落とし穴」は、量子力学それ自体の枠組みのなかでは解決されてこなかったし、これからも解決されないでしょう。しかし、今日に至るまで、あなたたちが「落とし穴」と呼ぶものは、量子力学が人類の意識のなかで引き金を引いてきた意識の拡大のプロセスに関する限りでは、躓きの石にはなっていません。


 とても面白いことに、量子力学の「落とし穴」の問題が前面に持ってきたことは、エコロジー(環境)の方向から人類に位置づけられた巨大な圧力だったのです。現在の世界の状況において、切迫する環境問題の解決は、量子力学の枠組みだけからはやってきません。自然のなかで、そしてエコロジーに関するなかで、行動や形として一度、表現された落とし穴は、もっと強調されるようになることでしょう。量子力学は科学における橋渡しのステップとして機能します・・・それは、長期間に渡って「力を持ち」続けるようにはデザインされていないのです。


 ミシェルにとっては、現実は、彼女が共にコミュニケートし研究してきた自然や他の知性たちの目の中にあります。共創科学は、私たちの理解を超える知識と能力を持つ自然や他の知性たちの内化(物質化)の情報入力を含んでいるがゆえに、他のすべての科学とは質的に異なっているのです。これらの知性たちは、人間たちがコミュニケートできる別の情報源なのです。アインシュタインは、「・・・すべての現実に関する知識は経験と共に始まり、それと共に終わる」と信じていました。しかし、アインシュタインの経験は、私たちのすべてにおなじみな通常の経験でした。ミシェルの経験、自然や他の知性たちとの経験は、それを遥かに超えるものです。


 ヘンリー・P・スタップは、ベルの理論が科学史のなかで最も重要な貢献をするものだと考えました。しかし、スタップは共創科学については知りませんでした。私は、ミシェルの自然との研究と、共創科学が、科学史における最も重要な進歩であると確信しています。


出典 “Perelandra Garden WorkbookⅡ”by Machaelle Small Wright in 1990,Published by Perelandra,Ltd.
p.Ⅶ〜p.ⅩⅤⅢ



補注
 文中に「インヴォリューション」と「エヴォリューション」というキーワードが出てきます。それぞれ「内転・物質化・下降」「外転・進化・上昇」という訳語をあてましたが、「進化」はともかくとして、何のことやらよく分かりません。そこで、ウィキペディアの「グルジェフ」の項から、その説明を引用しておきます。

 
宇宙論:インボルーションとエボルーション


インボルーション(involution)とエボルーション(evolution)は、グルジエフの宇宙論を理解するうえで鍵となる言葉だが、適切に訳すのが難しい、一般的な訳語としては、インボルーション=退化、エボルーション=進化だが、これではどうしてもインボルーション=悪、エボルーション=善という解釈に結び付いてしまう。ところが、人間の集合的な意識においては、インボルーションという言葉が表すトップダウンの流れのほうが、いわゆる「善」の観念と結び付きやすく、一般的な宗教はこの方向性を帯びている。エボルーションの流れに沿った個の成長の道はむしろこれに逆らうものである。グルジエフは、インボルーションとエボルーションをめぐる一般的な善悪判断を、現実の正確な認識を妨げる迷妄の根源と見なし、そうした善悪判断を離れてこの二つの言葉が意味するものを理解するように求めた(Gurdjieff ^ Beelzebub’s Tales to His Grandson, Chapter 44)。


原義において、インボルーションは「内転」、エボルーションは「外転」であり、」宇宙における万物の変化が従いうる二つの方向性を指す。グルジエフは「われわれの知っているこの宇宙」の発祥について、「一者からの万物の創造」という点で基本的にはビッグバン的な理論を認め、インボルーションとはこの一者に始まる外向きの動き、創造の流れである。それなのにこれが「内転」と言われるのは、細分化された物質世界における「巻き込まれ」の動きであるという見方に立ったものと思われる。これは創造の源泉に発するいわば「天からの息吹」(emanation from the above)であるから、「善」と見なされがちであるが、これは下に向かうほど質を落としていく退化性の流れであるから、そこにこうした善悪基準を持ち込むこと自体が誤りである。


この「インボルーション」の流れのなかから生まれた被造物がこの流れを遡って源泉へと戻ろうとする動きが「エボルーション」である。これはある意味で、創造の起源に発する流れに対する反逆であるから「悪」と見なされがちだが、これは回帰への衝動(グルジエフはこれに一般的には後悔を意味するremorseという言葉をあてはめた)に突き動かされた進化の流れである。 グルジエフが「三の法則」と呼んだ原理との関係では、「インボルーション」の流れに沿った力の働きは「受動的」、「エボルーション」の流れに沿った力の働きは「能動的」であり、全宇宙に意識が宿る(spiritualized)のはこの二つの流れの間に生じる対立/拮抗/和解のドラマゆえであるとされる。


「宇宙の成り立ちに関与する第三の力は、ひとつは下に向かいひとつは上に向かう、互いから独立したこの二つの基本的な力が、あらゆる空間で、あらゆる被造物のなかでぶつかりあうことから生まれる。この独立した第三の力は、最初に挙げた二つの基本的な力の結果にすぎないとはいえ、それでもこれこしが宇宙の万物に意識を宿らせる力、対立の和解をもたらす力なのである。」(Gurdjieff ^ Beelzebub’s Tales to His Grandson, Chapter 44)