妖精さんの独り言 2−6

◆自然農法と虫◆


 良くも悪くも、世界で最もよく知られている愛媛県人である自然農法の提唱者、福岡正信さんも、虫さんについては色々と語っておられます。二十数年前、この一節を読んだ時には、「おおー!」と思ったものですが、ミシェルさんの言うことと比べると、まだまだ甘かったのかな? と思ったり。ただ、むしろ「病害虫」という問題を、いかに解決していくのか? という発想法として捉えると、非常に参考になるかもしれません。


「例をあげて説明すると、「一つの作物、稲に一匹の虫がとまっている」という現象を前にしたとき、科学の目は早速その作物と虫の関係に注目し(局部的視野に出発)、この虫が葉の汁を吸収して稲が枯れる現象が起きると、これは害虫であると見ていく(局時的視野)。この虫の種類、形態や生態についても次第に研究の度を広めていって(全体的判断)、最後にはどうしてこの害虫を殺すかと考えていく(総合的立場)。
 自然農法ではこの場合、作物と虫を見てまず注意することは、稲を見て稲を見ず、虫を見て虫を見ない(局時局所にとらわれない)ということである。稲と虫を観察して、この虫はなぜ、いつ、どこからどうして発生したのか、なんのために何をしようとしているのかを考え追求していくというふうな科学的追求をしない。ではどうするのかと言えば、本来自然には作物もなく害虫もないという立場(時空を超えた立場)に立ってみるのである。「作った」物、「害する」虫という概念は、人間が自己の主観的基準から勝手に決めただけの言葉であり、自然の摂理からすると、意味をなさない。つまり、この害虫は害虫であって害虫でないことになる。ということは、この虫が地上に存在しても、稲が生長するにはなんらさしつかえない、稲と虫が共存しうる道、農法があるということである(結論)。
 自然農法は、たとえ害虫がいえてもなんらさしつかえない稲作りを開発する方向に向かう(出発点)。最初に結論をだし、この結論に合うように局時的局所的問題を片づけていく。科学的には害虫と言われるウンカについてみても、この害虫がいつでも、どこででも稲にいて害をするわけではない、時と場合がある。
 長い目と広い視野から検討してみるがよいといっても、別に難しい専門的研究が必要であるという意味ではない。
 科学者は、虫が稲を害する現象をとらえ、追求していくが、むしろ虫が稲を害さない場合の現象を観察するだけでよい。そのような現象はどんな場合でもかならずあるはずである。有害があれば無害があるのが自然である。一枚の田では被害がはなはだしいのに、一方の田は少ない、あるいは寄りつかないというような現象がかならず起こるものである。被害の少ない場合、ない場合、それはどうして起こったかを調べていって、何もしないで虫の被害のない状況を作っていく、それが自然農法の進め方である。」
福岡正信『無Ⅲ 自然農法』(春秋社刊 1985)P.180-181


 まあ、ミシェルさんのやり方なら、稲の妖精さんとウンカの妖精さんとつながって、どうしたらいいのか、直接、聴いたらいいじゃん!? みたいな世界ですが、問題解決の方法論として見るなら、福岡さんの言っていることは非常に面白かったりします。というか、心理療法の技法で、この原理を応用したものがいくつかあります。


 一つは、行動療法(学習療法)の技法で、問題行動を罰や消去(計画的無視)の手続きによって減らしたりなくしたりするよりも、問題行動とは両立しない適切な行動を強化して(褒めたり、ご褒美をあげたりして)、その頻度と持続時間を増やすことによって、結果として問題行動を減らしてなくしてしまおう・・・というやり方があります。「叱るよりも褒めよ」という子育て法の本当の意味は、そこにあったりしますが・・・


 もう一つは、家族療法のなかの解決志向ブリーフセラピーという学派に、「例外探し」という技法があります。例えば、「不登校で学校に行けない」という子どもさんに関して、教師や親によく聞いてみると、「火曜日の図工の時間だけは登校している」とか、「給食の時間だけは教室に入れる」とか、そういう「例外」が隠れていることがあります。あるいは、「アルコール依存症で酒が手放せない」と訴える患者さんでも、よくよく聴いてみると、「このあいだの日曜日は、なぜか一滴も酒を飲まなかった」とか、「一昨日は、いつもなら泥酔するまで飲んでしまうのに、なぜか一杯だけ飲んで、やめることができた」とか、そういうことがあります。


「学校に行けない」「酒が手放せない」という問題に焦点を当てて、その原因ばかり分析しても、問題について詳しくなるだけですが、「既にある解決」である「例外」の方に焦点を当てていけば、解決法のヒントを得ることができます。「図工の時間だけは授業を受けられるのは、なんでかな?」とか、「日曜日に一滴も飲まずに済んだのは、どんな工夫や出来事があったからなのかな?」とか、そういうことをインタビューして、「図工の次に好きな理科の授業に挑戦してみようか?」とか、「飲みたくなったら、この間の日曜日と同じように、サイクリングに出かけてみましょうか?」とか、そういう宿題を出して、「例外」を増やしたり広げたりしていくプロセスを援助することで、「解決」を創造することができることもあります。


 地域の問題を解決し、「地域再生」という解決状態を創造しようとするときにも、こうした考え方はヒントになるかもしれませんね。地域のなかでも、「いい感じ」の場所や人、元気の衰えない場所や人は残っていないのか? あるいは、ちょっと前は元気がなくなっていたのに、また復活して活気が出てきたエリアはないのか? 地域のなかの「例外」、地域のなかの「既にある解決」、つまり地域のなかの見過ごされてきた「資源(リソース)」に目を向けてみると、案外、面白いものが見えてきたりして!?




 ここのところ、また、真夜中に目覚めて、窓の外の夜空を見上げると・・・
幾何学模様の光のネットが・・・
と言っても、ぼんやり光っている感じだけど、だんだんと精緻なものに
なっていっている感じ。
う〜ん・・・なんじゃらほい?