妖精さんの独り言 3−4

◆農業の思考術◆


 これが農業の実践になってくると、人間の都合だけではなくて、作物の側の都合、土壌条件、自然や四季のタイミング、気候や気温、降水、風、日照などの自然条件など、変数が非常に多くなってくるので、日々、臨機応変に頭と手を使わなければならなくなります。ただ、その時に、目の前の植物の生育状況や田畑の状況に基づいて作業をするか、それとも農協さんの栽培指針に基づいて作業をするか? という問題もあって、栽培指針という設計図に頼り過ぎて、現場で工夫し変更するという努力を怠ると、時々、思ってもいない形で足を掬われることがあります。
 

 特に注意しなければならないのは、大きく育った時にどれくらいのスペースが必要になるか? 日照条件にはどんな変化があるか? 大雨が降った時の排水は大丈夫か? 乾燥が続いた時の潅水の手配はどうするか? などの点です。つまり、植物は生長し変化する生き物なので、その生育プロセス全体を考えて栽培条件を整える必要があるし、短くても3カ月、長ければ半年というスパンのなかで生じる、季節の変化や悪天候による災害の可能性も、あらかじめ想定しておかないといけないわけです。植物の成長後の姿を「絵に描いてみる」だけでなく、悪天候や季節の変化に応じて圃場条件がどう変化するについても「絵に描いてみる」が必要あるわけです。


 また、圃場にトラクターやコンバインなどの機械を入れる時には、どういう経路で、どういう順番で耕転や刈り入れを行なえば、轍を残さずに合理的かつ効率的に作業を行なえるかを考える必要もあります。同様に、動力噴霧器で防除を行うときにも、どこにダンプを停めて、どうやってホースを段取りするか? を圃場ごとに考えないといけないのですが、その時にも前もって「絵を描いておく」ことが必須になります。


 以上を踏まえて、実際の農作業のプロセスとしては、土壌改良剤や堆肥を入れて土作りをして、作付け前には元肥を入れて耕転・畝立て・マルチ張りをし、播種・定植・灌水をし、中耕・土寄せ・除草をし、支柱を立てたり、寒い時にはトンネルを設置したりし、病気や害虫の気配を感じたら予防的に防除し、2度目3度目と繰り返す時には、農薬抵抗性病害虫を出さないように農薬の配合を変えて、収穫期を見定めて収穫し、収穫したものを洗浄・調製・荷造りして、農協の共同販売や直売所に出荷する。また、収穫が終わった畑からは残渣を持ちだして、次の作付けに備えて、土改剤をまいて休ませておく・・・というのが、基本的な作業の流れです。米麦をはじめとして、野菜・果樹・花卉など、様々な品種を栽培していると、そのそれぞれで生育過程や生育条件に違いがあるので、肥料の種類や配合、農薬の適用、畝立ての仕方、圃場の条件などを考えながら、適時・適地・適作を図っていかないといけません。


 そうやって苦労して収穫した作物が、高く売れればいいのですが、市況の変動や直売所の販売状況によっては、大きく値崩れして利益が出ないことも多々あります。これに対応するために、主力の作物では、時期をずらして何度も作付けして、収穫期間を長くすることで、高く売れた時期と安くしか売れなかった時期を平均すると、少し儲かるくらいのところを狙います。


妖精さんの独り言 3−3

◆イメージの共有から意識の共有へ◆


 この作業工程のイメージを作業者全体で共有できると、現場での作業は有機的かつ効率的に、まるで生き物のようにうまく進んでいきます。個人的には、そういう現場のなかで2年間過ごしたおかげで、全体のなかの一部として、いまこの瞬間に自分がやるべきこと、やらないでいいこと、他の人に任せた方がいいこと、後回しした方がいいこと・・・を適当に即断するセンスが身に付いたと思っています。とは言っても、それは自分が思っているだけで、どうもマネジメント講座では、二日酔いで寝ていたり、蜜蜂に気を取られてふけていたり、場違いな質問をしたり・・・予定調和を乱すようなことばかりしているような気がするので、せっかく身に付いたセンスがなくなったのかも。


 まあ、それはそれとして、色々な現場を渡り歩いたなかでも、優秀な職長さんというのは、朝礼の後、「ご安全に!」をする前に、その日の仕事内容、工程、注意点を的確に伝えて、応援も含めた作業者の頭のなかに、はっきりとしたイメージが浮かぶようにしていました。そして、10時の休憩、昼休み、15時の休憩というポイントで、作業の進捗状況を確認して、修正や変更、人員の補強を行なって、17時に仕舞まで終わるように臨機応変に対応していました。つまり、最初に明確なイメージを与えておいて、一服するたびに、現場の状況に即してイメージの修正を図って、それを共有できるようにしていくわけです。それと同時に、何か問題が生じた時には、職人さんたちを集めて、現場で「集団思考」を走らせて、対応策を考えて、即実行して、それでもうまくいかなければ、次の手段を考えて・・・何しろ仕事をきちんと終わらせようとします。


 こうしたイメージの共有を踏まえて、何度も「集団思考」によって問題を克服していくなかで、何となく相互の信頼に基づく「場の雰囲気」みたいなものが出来てきます。これは「場の意識」と言い換えてもいいかもしれませんが、その意識に合わせていくと、職長さんからの指示が出る前に、何となく「次はこれ、その次はこれだから、あの人はあっちの作業をして、僕は次の作業の段取りをして・・・30分後にそれが終わるから、それに合わせて、この道具を段取りしておかないと・・・」みたいなことが分かるようになってきます。それでも、時々、先走り過ぎて怒られたりするのですが、それはそれで修正していくと、だんだんと全体の意識が合うようになってきます。


 まあ、面白いもので、坊主は最初は先輩の職人さんの手元をして、溶接やら何やらの手伝いをするのですが、最初はともかくとして、しばらくしたら何も言われないでも必要な道具や資材を、ドンピシャのタイミングで渡していかないと・・・どつかれる(TT)要するに、職人さんの意識に合わせる練習をするわけです。それができるようになると、溶接や溶断の技術を教えてもらって、練習させてもらえるようになり、まあ、あまり重要でないところから作業を任せてもらえるようになります。そして、今度は先輩の職人さんの意識ではなく、現場全体の「場の意識」に、自分の意識を合わせていくようになっていきます。


 この「場の意識」に敏感になってくると、「何か今日は朝からゾワゾワして落ち着かない雰囲気だなあ!? 怪我などのアクシデントが起こりやすいから注意しなきゃ!」とか、「今日はすっきりとまとまった雰囲気だから、スイスイ仕事が進むんじゃないかな?」とか、そういう予測もつくようになってきます。で、さらには、その「場の意識」を整えるために、「ちょっと暗い感じだから、冗談でも言って盛り上げよう」とか、「しんどいけど、この作業をしておいてあげたら、全体が楽になるだろう」みたいな工夫を考えるようになります。つまり、自分という視点だけでなく、全体の場という視点からも動くようになると、現場の中での動きの質が大きく変わってきて、何も考えていないのに直観的に、いつでも適時・適材・適所にいるみたいな感じで動いていて、あっという間に定時が来て、仕事が終わる・・・みたいな感じになってくる・・・ところまでは行かなかったかなあ!?(残念)


出現する未来 (講談社BIZ)

出現する未来 (講談社BIZ)


妖精さんの独り言 3−2

◆現場の思考術◆


 さて、こういう「絵に描いた餅」みたいなことを学生に教えていたのですが・・・大学を離れて、鳶の現場で働いてみると、まさにこういった思考法で現場を回そうとする現場監督や、建築基準に合わせて数字を合わせている設計図と、実際に鉄骨を組んだり、ボルトを入れたり、溶接したりする現場の職人さんたちとのあいだには・・・「深くて渡れない河がある」ことに直面しました。何しろ、設計図通りに建て方ができることなど皆無でしたし、現場監督の立てた計画通りに作業が進むことも皆無でした。というか、それが現場では当たり前なんですよね。設計図通りにはいかないところをどう工夫して(現場監督の了承のもと)誤魔化すか? 設計図とは寸法の違う鉄骨が運び込まれたときに、どうやって寸法を合せるか? それが現場の仕事だったりします。そして、何よりも困るのは、設計図通りに組み立てようと思っても、構造的にボルトが入らないとか、ボルトを締めるためのシャーレンチが突っ込めないとか、クレーンで釣り下げても所定の場所に鉄骨を持って行けないとか・・・現場で鉄骨を組む人のことをまったく想定していない設計図や建築計画というものでした。


 そういう意味で、原発の安全審査とかやっていますが、そもそも設計図通りに施工するのが無理な上に、数十年の老朽化が重なって、地震津波でやられない原発を作るのは無理でしょう!? ましてや、あの天井から吊り下げた巨大な配管を固定するアンカーボルトの劣化や、複雑で狭い空間のなかで配管の継ぎ目を溶接することの困難さを考えたら、設計強度が確保されていると想定すること自体に無理がある! というのが、現場を経験した者としての正直な感想です。まあ、「事件は現場で起きている」という言葉の通りで、頭だけや口だけ、設計図だけ、視察して見ただけでは、本当の現実は分からないのだと思います。


 で、逆に現場の人たちは、現場監督や設計図に文句を垂れるばかりで、建設の全体像が把握できていなかったり、他の職人さんとの連携がうまくいっていなかったり、工程上のクリティカル・パスやボトルネック、さらには資材の搬入搬出の流れが分かっていなかったりするので、そのあたりの情報を共有して、うまく伝達するような工夫も大事かもしれません。何しろ設計図と施工の解離、現場監督と職人さんたちの齟齬、理想と現実の違いというのは、どうしても起こってくるので、少しでもそういった行き違いをなくすために、現場に足を運んだり、現場の人達とのコミュニケーションを密にしたりするのが、必要不可欠だということを実感しました。


 それから、他に現場で学んだこと・・・いや、沢山あるのですが、そのなかでも大事だと思ったのは、どんな作業をするときにも、基準点あるいは固定点を意識しなければならない、ということです。例えば、「墨出し」という作業がありますが、場所と高さを測量で定めた基準点をもとにして、そこから床や柱に線を引いていく・・・つまり、設計図に描かれたラインを現場に描き直していくのですが、この時に基準点が間違っていると、すべてが狂ってしまって後でやり直すことになってしまいます。実際、同僚がこの墨出しで失敗して、1日かけて作ったシャッター下地の位置が間違っていたことが後から判明して、午前2時まで残業して作り直したこともあります・・・JR大阪駅前の某超高層ビルですが。また、基準点が複数ある場合にも、基準点同士で狂いがあったりずれがあったりすると、横をつなぐ鉄骨の水平が出ない(TT)なんてことが起こったりもします。まあ、基本、鉄骨というのは水平と垂直なんで、斜めになっているということは、部材に狂いがあるか、墨出しで寸法を間違えたか? という話になります。


 それから、アングルなどを鉄骨などに溶接するときにも、斜めになったり、ずれたりしないようにする必要がありますが、その時に丸坊主にサングラスをかけた、どこをどう見ても「ヤ○ザ?」という先輩に教わったのが、何しろ点づけで仮溶接をしていくときの、順番を考えなければならない! ということでした。というか、一番最初に仮止めするところの位置がずれると、後から何をしてもずれたり斜めになってしまったりする。逆に、最初の1点がうまく仮止めできると、そこを支点に微調整をしながら固定していける・・・しかも、本溶接をすると、熱で鉄が膨張してどうしてもゆがむので、ゆがみを防止するようなポイントを点づけしないといけない。まあ、そんなことを「こんなことも知らんのか!」とか言われながら、優しく? 教えてもらったのですが、その時に、「ああ、なるほど、何事も最初の基準点が固まっていないと、うまく組み立てられないんだな」ということを悟ったわけです。


 そのことと共通するかどうか分かりませんが、アーク溶接やガス溶断をする時にも、何しろ溶接棒や溶断器を持っている手の肘や手首を何か動かないもの(資材に手首をくっつけておくとか、肘を膝の上に置くとか、それが不可能な時には脇をしめるとか、左手を使うとか)にくっつけて、そこを支点にして動かしていかないと、うまく溶接したり、まっすぐに溶断したりすることができません。何しろ、現実の物づくりの作業においては、基準点や固定点を確保することが、良い仕事をするための大前提になるわけです。


 あと、もう一つ・・・学校ではまったく学ぶ機会がなかったことは、「段取り八分」ということです。職人さんによっては「仕舞二分」と続けて、「じゃあ、本業は0分?」みたいなことを思うこともありますが、何しろ、仕事においては「段取り」と「仕舞」が大事で、それだけで勝負がつくと言っても過言ではないかもしれません。ちなみに、農業でも「苗半作」という言葉があって、良い苗を作ることが重要視されていますが、それに定植や播種前の土づくりや畝立てを加えれば、「段取り八分」と言えるかもしれません。


 鉄骨鳶でも雑鍛冶でも、所定の場所まで延長線やガス管、キャプタイアを引っ張って、シャーレンチでボルトを締めたり、アークやガスで鍛冶仕事をしたりするのですが、実際に作業を行なう時間というのは短くて、むしろ電源やガスボンベから電気やガスを引いてくる段取りと、それを撤収して次の作業場所へ段取り替えする作業、さらには最後にすべてを撤収して仕舞する作業の方が、時間と手間がかかったりします。まあ、これが新人さん(坊主)の仕事なんですが、本当に頭を使ってうまく短時間で段取りができると、仕事はスイスイ進むし、逆に段取りで手間取るとまったく仕事が進まなくて、残業に突入してしまう・・・なんてことにもなります。もっと言うと、この段取りを指図する職長さんが優秀だと、滞りなく平々凡々に仕事が終わるんですが、現場を把握していない職長さんのもとでは、無駄な動きが多くなって、何か問題が起こってはアクロバティックに解決するという、非常にドラマチックな現場になってしまいます。


 いや、そもそも段取りというのは、前日の仕舞から始まっていて、明日の作業で必要な道具の種類と数、ガス管の長さ、延長線やキャプタイアの長さ、鉄骨を引き上げたり固定したりするためのレバーブロックやチェーンブロックの数や種類・・・を的確に揃えて、前もって積み込んでおくか、用意しておく必要があります。それに関連して、親方から口を酸っぱくして言われたのが、「頭の中で、仕事の絵を描かないといかん。何事もイメージできるようにせんとあかんぞ」ということです。まあ、イメージ・トレーニングみたいなものですが、実際にきちんと頭の中で明日の作業工程をイメージして、そのなかで自分が色々な作業をしているところまでイメージできると、作業に必要な段取りや道具、さらには作業上のクリティカル・パスとそれを乗りこえるための工夫、先輩や同僚に助けてもらわなければならないポイント、資材の搬入・搬出とその動線などが、はっきりと見えてきます。それに基づいて段取りをすれば、万が一の時のバックアップも含めて、万全に近い準備ができるようになります。


 職人さんの言う「イメージ」というのは、上から俯瞰するようなイメージだけでなく、現場のなかで自分がどう動いているか? という「参加的イメージ」なのが、面白いところです。まあ、鉄骨の建て方も、クレーンの配置から見て、奥の方から順番に組み立てていかないと、鉄骨を該当箇所まで持って行けないとか、クレーンが出られなくなったとか、なかなか恐ろしいことが起きてしまうので、何しろ設計図を見ながら、自分の頭のなかで一通り鉄骨を組み立ててみる・・・というのが、親方のやり方だったようです。そのなかで、自分だけでなく、従業員も動かしてみて、作業に必要な人員とスキルを見定めていたのかもしれません。


妖精さんの独り言 3−1

地域再生マネジメントのための思考術


◆要約◆

 自分で言うのは何ですが、思ったよりも長くなってしまったので、最初に章立ての紹介をしておきたいと思います。


1.はじめに
2.思考とは何か
3.現場の思考術
4.イメージの共有から意識の共有へ
5.農業の思考術
6.農業のアナロジーから見た地域再生
7.おわりに


 だいたいの流れとしては、まず、思考とは何かということと、基本的な思考方法や論理形式の説明をした後、建築現場で身体を動かすなかで身についた思考法について述べ、さらには農業研修のなかで身についた思考法について述べます。そして最後に、農業を喩え(アナロジー)として、地域起こしや地域再生のプロセスについて考える・・・という無謀な試みに乗り出します。
 おそらく、最後はまとまりません(TT)


◆はじめに◆

 何かいきなり「地域再生マネジメントのための思考術」などと言う、大上段に振りかぶったテーマを掲げてしまいました。昔取った杵柄? で、手元に資料や文献がないなかで、どこまで語れるか? という問題はありますが、まあ、まずは思考と思考法について、適当にあることないことをまとめてみようかと思います。私も必要以上に長い年月を学校で過ごして、学ぶ側と教える側に身を置きましたが、「これについて考えなさい」とか、「この問題の答えは何ですか?」「この問題の解決方法を考えなさい」みたいなことばかり言われるのに、「思考とは何か?」「考えるとはどういうことなのか?」ということについては、ほとんど教えてもらえませんでした。「考えろ! と言うけど、どうやって考えたらいいの?」「自分では考えているつもりだけど、結論や答えが出ないのはなぜ? 頭が悪いから? 考え方が悪いから?」みたいな疑問に襲われて、「じゃあ、考えるというのは、どういうことなんだろう?」ということを調べ始めたのですが、これがまた、そういうことについてきちんと考えている人が少ないし、そのことをまとめた本も少なかったりします。


 いわゆる「思考法」「発想法」「ディスカッション法」についての本は沢山出ているのですが、それぞれが個別的なスキルを紹介していて、「紅茶キノコが健康にはいい」「いや、キチンキトサンがいい」「いやいや、コラーゲンが大事」「いやいやいや、やっぱり青汁でしょう」「いやいやいやいや、コエンザイムQ10が一番」・・・みたいな感じで、無数にある思考法の全体像や効果的な組み合わせ方について論じた本というのは、あんまりなかったりします。そんなこんなで、大学の演習の授業で、1から思考について教えていたのですが、何しろ教える方の頭が悪いというか、そもそも自分が分からないので勉強していることを、人様に伝えようとしたことに無理があったようで、学生さんたちも口をあんぐり(0)という感じでした。


◆思考とは何か◆

 とは言いつつ、うろ覚えのその演習のカリキュラムを振り返ってみて、箇条書きにしてまとめてみると・・・


①人間の認識機能としての、思考・感情・身体感覚

エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学

エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学


②記憶の仕組み  記憶術の実際

記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック

記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック


③論理とは何か? その1 演繹法帰納法
④論理とは何か? その2 弁証法
⑤論理とは何か? その3 因果論と科学的思考

思考・論理・分析―「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践

思考・論理・分析―「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践

⑤創造的思考の方法 その1 発散的思考と収束的思考
⑥創造的思考の方法 その2 ブレストとKJ法

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

⑦創造的思考の方法 その3 マインド・マッピング

ザ・マインドマップ

ザ・マインドマップ

⑧論理的思考の方法 その1 ロジカル・シンキング

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

⑨論理的思考の方法 その2 システム・シンキング

システム・シンキング入門 (日経文庫)

システム・シンキング入門 (日経文庫)

⑩論理的思考の方法 その3 シナリオ・シンキング

シナリオ・シンキング―不確実な未来への「構え」を創る思考法

シナリオ・シンキング―不確実な未来への「構え」を創る思考法

⑪論理的思考の方法 その4 アナロジカル・シンキング

アナロジーの力―認知科学の新しい探求 (新曜社認知科学選書)

アナロジーの力―認知科学の新しい探求 (新曜社認知科学選書)

⑫論理的思考の方法 その5 クリティカル・シンキング

クリティカルシンキング 入門篇: あなたの思考をガイドする40の原則

クリティカルシンキング 入門篇: あなたの思考をガイドする40の原則

⑬集団的思考の方法 その1 効率的な会議の進め方

ミーティング・ファシリテーション入門―市民の会議術

ミーティング・ファシリテーション入門―市民の会議術

⑭集団的思考の方法 その2 学習する組織

学習する組織――システム思考で未来を創造する

学習する組織――システム思考で未来を創造する

⑮思考を超えて 直観を磨くためには




・・・みたいな内容でした。まあ、講義ではなくて演習だったので、毎回、発想法や思考法のあらましを紹介して、テーマを与えて「君たち、実際にこれを使って考えてみたまえ!」「ちなみに、先生も頭が悪くて、よく分からんから、質問されても答えられません。分からんところは、周りの友達に聞いてね!」みたいな感じで、グループでディスカッションさせていました。講義時間のなかで、いかに講師の喋る時間を減らして、学生が議論する時間を増やすか? 講師が考える時間を減らして、学生が考える時間を増やすか? に命を賭けていたのですが・・・よく考えると、それはいかにサボるかを考えていた・・・ということだったようで(TT)


 ちなみに、上記のカリキュラムのなかでは、その1→その2→その3→・・・という順番で、より高度かつ複雑な思考法を紹介していきました。「抽象度が上がる」という言い方もできますが、思考や論理の次元の違いも意識しておかないと、議論がかみ合っているようで、実はとんでもなくすれ違っていた・・・みたいなことが起きてしまいます。さらに言えば、思考次元での発言なのか、感情次元での発言なのか、はたまた身体感覚の次元での発言なのか? ということも整理しておかないと、「男と女の間には渡れない深い河がある」という感じで、議論が成立しない可能性が高くなります。むしろ、感情や身体感覚の方が、直観的な知恵とはつながりやすいのですが、議論をしているときには、交通整理が必要です。


 で、まあ、世の中には雨後のタケノコのように沢山の思考法や発想法があるわけですが、最低限、抑えておかないといけないポイントは、「帰納法」「演繹法」「弁証法」という3つの論理の立て方と、「科学的思考(実証的思考)」、「発散的思考」と「収束的思考」の違いと組み合わせ方、そして「意思決定のタイミング」くらいなところでしょう。そうは言っても、今や本当にうろ覚えで・・・うまく説明できるかどうかも分かりませんが、あることないこと適当なことを並べてみると・・・


 「帰納法」とは、観察や調査、実験を通してデータを集めて、そこからある命題や結論を導き出すという論理の進め方を言います。これに対して、「演繹法」とは、三段論法的に、「人間は死ぬ」→「ソクラテスは人間だ」→「ゆえに、ソクラテスは死ぬ」というふうに、大前提から出発して、物事の是非を推論していくという論理形式を指します。基本的には、「帰納法」によって前提となる命題を確立したら、その命題を出発点として、「演繹法」によって新しい事象や未知の事象についても推論していく・・・という流れのようです(間違っていたらごめんなさい)。


 さらに、「弁証法」というのは、「正反合」とも言いますが、「正」と「反」という対立する意見、対立する立場を、その両者を含み込むような高い次元の意見や立場=「合」を打ち出すことによって、解決していくような論理の進め方を言います。地域のなかで対立が起こっても、「地域を良くしたい」「地域を再生したい」という意志や動機の次元で一致できれば、その具体的な方法では意見が違っていても、根っこのところでは協力できるかもしれない・・・みたいなことですね。


 次に「科学的思考」(実証的思考)ですが、これはまた、「仮説検証的思考」と言われることもあります。大雑把な流れとしては、ある出来事Aと別の出来事Bが、時間的に近接して起こった時に、「出来事Bの原因は出来事Aではないか?」という仮説を立てることができます。そして、その仮説を検証するために実験や調査を行ない、出来事Aがある場合とない場合に、出来事Bが起こるかどうかについて、データをとります。そして、出来事Aがある場合に出来事Bが起こる確率が統計的に高ければ、「出来事Bの原因は出来事Aの原因である」と結論できるわけです。


 例えば、関東や東北で2011年以降、脳卒中心筋梗塞で倒れる人が増えているとか、橋本病やバセドー氏病などの甲状腺疾患が増えているとか、あるいは葬儀場がいっぱいになっているとか、そういう変化(=情報)が見られた時に、当然、そうした変化と時間的に近接して起こった事象の影響を疑わなければならないわけです。つまり、「福島第一原発から拡散した放射能による被曝が原因で、これらの疾病の増加や死亡者数の増加が生じているのではないか?」という仮説を立てて、その是非を実際の調査や実験によって確かめて、因果関係をはっきりさせる・・・というのが、「科学的思考」なわけです。


 それから、「発散的思考」と「収束的思考」というのは、「発散」「収束」の言葉の通りです。ある問題やテーマに関して、新しい思いつき、変なアイデア、ありえそうにないことを、とりあえず実現可能性や合理性は置いておいて、どんどん出していってアイデアを広げていくのが「発散的思考」です。この作業を行なう時には、個人で行う時には自分の頭のなかで、グループで行うときには他人のアイデアに対して、「馬鹿げている」とか「あり得ない」とか「意味がない」とか、そういう批判やストップをかけないことが大事です。で、「発散」のコツとしては、類似・隣接・対立という「連想」の3形式をヒントにすると、面白いアイデアが出てきます。要するに、「他に似ているものはないか?」「空間的、時間的、集団的に、隣にあるもの、近くにあるものはないか?」「対立するもの、真逆のものは何かないか?」を調べてみるわけです。


 こうして「発散的思考」によって沢山の下らないアイデアを出した上で、今度は、「収束的思考」によって、アイデアを分類し、階層化し、論理的に結びつけて、一つの結論を導きだしたり、そのテーマに関する全体像をまとめたりします。こうした作業を視覚的に行うためのツールとして、KJ法やマインド・マッピング法などがあります。で、この収束過程においては、「えっと、新しいことを思いついたんだけど!」とか、「話は違うんだけど!」みたいなことが御法度になります。何しろ、あらゆる会議、あらゆるディスカッションにおいて問題になるのが、色々なアイデアを出し合おうとしている時に、いきなり結論やまとめに入ろうとしたり、新しいアイデアにケチをつけたりする人が現われたりすることと、逆にアイデアを整理して結論をまとめようとしている時に、新しい思いつきを持ちだして議論をかき回す人が現われることです。マネジメント講座でも、毎回、変な質問をして先生方の話を壊そうとする人たちいますよね!?(すみません)


 例えば、地域でカラスが増えて困っている・・・という問題をテーマにして議論するなら、まず、カラスが増えた原因について、「発散的思考」でアイデアを沢山出した上で、「収束的思考」で原因を整理して、いくつかの原因にしぼってみます。次に、そのいくつかの原因を解決するためにできそうなことについて、「発散的思考」で色々とアイデアを出してみて、アイデアが出つくしたら「収束的思考」で分類して解決策を絞っていきます。そして、最終的には実行可能かつ検証可能な解決策を決定して、実行に移す。要するに、「発散的思考」→「収束的思考」→「発散的思考」→「収束的思考」というプロセスを踏むわけですが、これの交通整理をきちんと行って、「発散的思考」と「収束的思考」が入り混じって混乱しないようにするのが、会議や議論の進行役・司会者の役割ということになります。


 最後に、意思決定のタイミングですが、これに関しては「データが8割方揃ったら、意志決定を行なって、実行に移さなければならない」と言われています。特に、企業における意思決定がそうですが、完璧を期して、必要なデータや情報が100%集まるまで待っていると、十中八九、タイミングが遅すぎて、状況の変化に乗り遅れたり、ライバル企業に出し抜かれたりするそうです。人によっては、「6割のデータや情報で動かないと遅い」と言う人もいますが、実際に実行して結果を出すことに意思決定のための「思考」の目的があるのですから、完璧かつ正しい答えなど目指さないで、8割で見切り発車して、後はPDCAサイクルを回しながら、臨機応変に現場で考える・・・のが大事みたいです。


のらブレイク

昨日まで・・・怒涛のような仕事? で大変でしたが、
今日の休みは・・・某所のイベントへ!
猪なべと猪の焼肉・・・を食べましたが、
精がつくというか、胃の中で猪が暴れているというか・・・


久しぶりの雨で、雲風農園で寝ているタマネギ苗さんたちも、
そろそろ置きだしてくる頃か?


昨日の朝に植えたソラマメさんたちも、
先週の日曜日に播いたエンドウさんたちも、
一冬越して、美味しい豆になってくれるかなあ?



種取り用のキュウリが太り、
なぜか今頃、播いてもいないのに大きくなっているタカナが一株、
誰かさんが食い散らかしていったスイートコーンも一株、
綿の実をつけた綿も一株、
これもまた、植えた覚えがないのに、いつの間にか大きくなっちゃった
ニンニクが2株・・・


きちんと? 種を播いたダイコンが、半分以上、発芽せず・・・
カブは4分の1しか発芽せず、タマネギ苗も5分の1しか発芽しないのに、
播いていないもの、植えていないものが元気にはびこっていたり・・・


そもそも、ダイコンの畝の半分以上を、植えていない秋ジャガ占領している
というのは、いったいどういうことなのか? 
妖精さんに問い質したいところだけど・・・ま、いっか!?


ブロッコリーさんたちには、相変わらず、青虫さんたちがついて、
むしゃむしゃ・・・まあ、今年最後の世代で、蛹になって冬を越して、
来年に命をつなぐ人たちだしなあ・・・とか思いながら、
ぽいぽいテデトールをしています(アシデフームはしてません)。


それから、今日は、ダイコンにナノクロムシがついているのを発見。
この人たちも毎年、決まったように出てきますねえ・・・。
蝶や蛾の幼虫とは、足の数が違うという話なので、
青虫さんと比べてみよう・・・。



夏の間、ミニトマトを植えていた畝・・・
ミニトマトだけでなく、露草にも覆われていて、
それをおもむろに引き抜いて畝を裸にして、
そのまま、肥料も入れずに、ソラマメさんを定植。


ただ、枯れたミニトマトさんたちの根っこは、
見事にネコブセンチュウさんたちの巣窟になっていて、
「あんたら、これだけやられながら、よく頑張ったなあ!?」
みたいな感じ。


いやはや、雲風農園はどうもネコブセンチュウが多いようで、
(厳密にはサツマイモネコブセンチュウかな?)
対策を打ちながらじゃないとヤバイ感じ。


というわけで、畝の上から木酢液を振りまき、
定植穴にはもみがらくん炭を施用したんだけど、
効果が上がるかどうか?


ただ、センチュウさんたちの活動も、11月に入って気温が下がると、
低下するようなので、ちょっと遅めのソラマメ定植とエンドウ播種で、
影響を抑えられるかもしれない。
何しろ、発芽直後、定植直後の幼根に入り込まれると、
後に響くらしいので・・・

妖精さんの独り言 2−6

◆自然農法と虫◆


 良くも悪くも、世界で最もよく知られている愛媛県人である自然農法の提唱者、福岡正信さんも、虫さんについては色々と語っておられます。二十数年前、この一節を読んだ時には、「おおー!」と思ったものですが、ミシェルさんの言うことと比べると、まだまだ甘かったのかな? と思ったり。ただ、むしろ「病害虫」という問題を、いかに解決していくのか? という発想法として捉えると、非常に参考になるかもしれません。


「例をあげて説明すると、「一つの作物、稲に一匹の虫がとまっている」という現象を前にしたとき、科学の目は早速その作物と虫の関係に注目し(局部的視野に出発)、この虫が葉の汁を吸収して稲が枯れる現象が起きると、これは害虫であると見ていく(局時的視野)。この虫の種類、形態や生態についても次第に研究の度を広めていって(全体的判断)、最後にはどうしてこの害虫を殺すかと考えていく(総合的立場)。
 自然農法ではこの場合、作物と虫を見てまず注意することは、稲を見て稲を見ず、虫を見て虫を見ない(局時局所にとらわれない)ということである。稲と虫を観察して、この虫はなぜ、いつ、どこからどうして発生したのか、なんのために何をしようとしているのかを考え追求していくというふうな科学的追求をしない。ではどうするのかと言えば、本来自然には作物もなく害虫もないという立場(時空を超えた立場)に立ってみるのである。「作った」物、「害する」虫という概念は、人間が自己の主観的基準から勝手に決めただけの言葉であり、自然の摂理からすると、意味をなさない。つまり、この害虫は害虫であって害虫でないことになる。ということは、この虫が地上に存在しても、稲が生長するにはなんらさしつかえない、稲と虫が共存しうる道、農法があるということである(結論)。
 自然農法は、たとえ害虫がいえてもなんらさしつかえない稲作りを開発する方向に向かう(出発点)。最初に結論をだし、この結論に合うように局時的局所的問題を片づけていく。科学的には害虫と言われるウンカについてみても、この害虫がいつでも、どこででも稲にいて害をするわけではない、時と場合がある。
 長い目と広い視野から検討してみるがよいといっても、別に難しい専門的研究が必要であるという意味ではない。
 科学者は、虫が稲を害する現象をとらえ、追求していくが、むしろ虫が稲を害さない場合の現象を観察するだけでよい。そのような現象はどんな場合でもかならずあるはずである。有害があれば無害があるのが自然である。一枚の田では被害がはなはだしいのに、一方の田は少ない、あるいは寄りつかないというような現象がかならず起こるものである。被害の少ない場合、ない場合、それはどうして起こったかを調べていって、何もしないで虫の被害のない状況を作っていく、それが自然農法の進め方である。」
福岡正信『無Ⅲ 自然農法』(春秋社刊 1985)P.180-181


 まあ、ミシェルさんのやり方なら、稲の妖精さんとウンカの妖精さんとつながって、どうしたらいいのか、直接、聴いたらいいじゃん!? みたいな世界ですが、問題解決の方法論として見るなら、福岡さんの言っていることは非常に面白かったりします。というか、心理療法の技法で、この原理を応用したものがいくつかあります。


 一つは、行動療法(学習療法)の技法で、問題行動を罰や消去(計画的無視)の手続きによって減らしたりなくしたりするよりも、問題行動とは両立しない適切な行動を強化して(褒めたり、ご褒美をあげたりして)、その頻度と持続時間を増やすことによって、結果として問題行動を減らしてなくしてしまおう・・・というやり方があります。「叱るよりも褒めよ」という子育て法の本当の意味は、そこにあったりしますが・・・


 もう一つは、家族療法のなかの解決志向ブリーフセラピーという学派に、「例外探し」という技法があります。例えば、「不登校で学校に行けない」という子どもさんに関して、教師や親によく聞いてみると、「火曜日の図工の時間だけは登校している」とか、「給食の時間だけは教室に入れる」とか、そういう「例外」が隠れていることがあります。あるいは、「アルコール依存症で酒が手放せない」と訴える患者さんでも、よくよく聴いてみると、「このあいだの日曜日は、なぜか一滴も酒を飲まなかった」とか、「一昨日は、いつもなら泥酔するまで飲んでしまうのに、なぜか一杯だけ飲んで、やめることができた」とか、そういうことがあります。


「学校に行けない」「酒が手放せない」という問題に焦点を当てて、その原因ばかり分析しても、問題について詳しくなるだけですが、「既にある解決」である「例外」の方に焦点を当てていけば、解決法のヒントを得ることができます。「図工の時間だけは授業を受けられるのは、なんでかな?」とか、「日曜日に一滴も飲まずに済んだのは、どんな工夫や出来事があったからなのかな?」とか、そういうことをインタビューして、「図工の次に好きな理科の授業に挑戦してみようか?」とか、「飲みたくなったら、この間の日曜日と同じように、サイクリングに出かけてみましょうか?」とか、そういう宿題を出して、「例外」を増やしたり広げたりしていくプロセスを援助することで、「解決」を創造することができることもあります。


 地域の問題を解決し、「地域再生」という解決状態を創造しようとするときにも、こうした考え方はヒントになるかもしれませんね。地域のなかでも、「いい感じ」の場所や人、元気の衰えない場所や人は残っていないのか? あるいは、ちょっと前は元気がなくなっていたのに、また復活して活気が出てきたエリアはないのか? 地域のなかの「例外」、地域のなかの「既にある解決」、つまり地域のなかの見過ごされてきた「資源(リソース)」に目を向けてみると、案外、面白いものが見えてきたりして!?




 ここのところ、また、真夜中に目覚めて、窓の外の夜空を見上げると・・・
幾何学模様の光のネットが・・・
と言っても、ぼんやり光っている感じだけど、だんだんと精緻なものに
なっていっている感じ。
う〜ん・・・なんじゃらほい?

妖精さんの独り言 2−5

一昨日は、仕事の合間に軽トラックを停めて、缶コーヒーを飲もうとして
いたら・・・道の向かいにいた鼬と目が合った。
時々、一瞬の間に道を横切るのは目にしていたのだけど、
目が合ったのは初めて!?
携帯で写真を撮ろうかな? と思ったら、姿を消していた。


昨夜は、久しぶりに・・・夜空のネットがまた出現。
夜中に、ふと目が覚めて、仰向けになったまま窓から夜空を見上げたら、
いままでよりも規則的な模様のネットが出現していた。
何となく、フラワー・オブ・ライフの模様に似ていたが、
周りの円がはっきりしない感じ。


あれは、私たち(の認識)を閉じ込めているマトリックスのネットなのか?
それとも、私の認識能力が向上したことで見えるようになった何かなのか?
あるいは、地球の新しいグリッドなのか?
う〜ん・・・わからん。


寝る前に、アナスタシアの第4巻「共同の創造」を読んだせいかな?


共同の創造 (アナスタシア・リンギングシダー)

共同の創造 (アナスタシア・リンギングシダー)


・・・アナスタシア・・・巻が進んでもテンションが落ちませんね。
ある意味、ミシェルさんの「コークリエイティブ・ガーデニング」と
通じるものがあります。




虫たちを照覧するディーヴァ(の話)


 ディーヴァ界のなかであなたは、コナガ(アブラナ科の野菜を食害する蛾)のディーヴァのような、特定かつ個々の自然の形態に対応するディーヴァたちと、王国全体のパターンとプロセスを包含し照覧する地位から機能しているディーヴァたちを見つけることでしょう。この場合、私は昆虫王国全体を照覧し、この分野のなかであなたに必要とされる意識の変化を援助することができるような、パターンと目的に関する洞察をあなたに与えたいと思います。


 それを理解することなしに、ミッシェルは昆虫界の人間との関係における全体的な目的に触れてきました。私はここでコミュニケーションについて語っています。自然王国がある状況に人間の注意を引く必要があるとき、それはまず最初に、人間と相互作用するために沢山の数の虫たちを緊急派遣することでしょう。このことはあなたにとっては奇妙に聞こえるかもしれません。おそらくその概念について少しでさえも考えてみようとは思わないかもしれませんが、しかし、このことを熟慮してください:もし人間のケアの周囲に焦点を置いたものから、人と自然のあいだの誤って誘導された接点の結果である、自然の中で起こっている状況へと、人間の注意を転じたいと自然が望むなら、昆虫界からの突然の浸入あるいは侵略を通してのものよりも、人間の注意に衝撃を与え、転換させるより良い方法はあるでしょうか? 私たちの観点からすると、この自然界は、いきなりのパニックを生み出すことなく緊急対応することもできます。もし突然、あなたがどっと逃げ出す森林や木々によって驚かされたら、あなたはどんなふうに感じるでしょうか? もちろん後者は、人間社会のなかで経験されてきたし、私の指摘を完全に描き出しています。どっと逃げ出す木々の場合には、パニックと巨大な混乱、恐れ、破壊、衝撃があることでしょう。これは、私がここで強調したいコミュニケーションではありません。私が話しているのは、警告を鳴らし、自然に対する人間の注意を引くようなコミュニケーションです。どちらの側からも即時の破壊的な結果を生み出すことなく人間界と接触できるのは、昆虫界なのです。彼らは人間たちに接触し、人間たちを悩ませ、人間の注意を持続的に引き続けることができます・・・そして同時に、もし成功するなら、彼の環境のなかで起こっている危機的な状況に、人間の注意を引くのです。


 もし人が特定のエリアにおける自然のバランスの状態を熟慮するなら、そのエリアのなかの虫の状態と、他の自然への虫たちの影響ばかりでなく、そのエリア自体とその近くの両方に住んでいる人たちへの影響を観察することは、実に懸命な動きです。


 自然のバランスが崩れているときには、その不均衡が、問題になっている特定のエリアのなかで代表される、すべての王国(鉱物王国、植物王国、昆虫王国、動物王国、人間王国など)を通じて反映されるというのは真実です。従ってそれが、私があなたに分け与えている単純な論理以上のものであると仮定するのは、理にかなったことでしょう。しかし私はもっと言います。確かに、虫たちは環境の不均衡を自然に反映することでしょう。あなたにとってさらにもっと重要なことは、人間に対してこの不均衡を最初に電報で伝えるのは虫たちであり、その環境のなかの自然形態が、不均衡の兆しが目に見える形で示すよりもずっと前に、彼らはこれを行なうのです。もし昆虫界と人間とのあいだの連絡線が人間によって意識的に受容されて、それが意図されているレベルで操作することが許されていたなら、特定のエリアが病気や破壊、自然のエリアの惑星からの除去を反映するプロセスが始まるよりもずっと前に、環境的な不均衡の脅威は人間に伝えられていたことでしょう。もし人間が、虫たちが電報で伝えようと努力していることに対して、彼自身を敏感にしていたなら、彼はいま可能だと想像しているよりもずっと簡単に、生態学的なバランスのレベルの領域を改善できたことでしょう。


 人間社会のなかで病気が結果として生じるような程度まで、虫たちが人間と接触していたところでは、これは自然による悪意に満ちた攻撃だと仮定するのは正しくありません。人間のなかに起こる病気は、人間もその一部であるところの、自然のなかで起こっている不均衡の深刻さに直接的に比例しています。それらは相関しているのです。そして、自然の不均衡への鍵は、病気がどのように人間の体のなかに表われているかにあるのです。極端だけれども、繰り返すと、虫たちはコミュニケーションの運び屋として機能しているのです。病気のエリアのなかで、彼らは自分たちが伝達したいまさにその問題を、人間という形態の小宇宙のなかで象徴的に表現しているのです。


 もし私があなたに人間の形態も自然であることを思い出させるなら、私が言っていることについてあなたが熟慮することの助けになるかもしれません。それは、植物・動物・鉱物の三つの王国すべてを体現しており、それらを一つの機能的な単位に統合しています。このことを心に留めると、自然がいかにして人間の形態というミクロコスモスのなかに、彼の周囲の環境というマクロコスモスで起こっていることを正確に反映させることができるかを理解するのが容易になるでしょう。自然のすべての王国が、人間の形態のなかに表されており、いつでも私たちにとって利用可能になっているのです。逆に言えば、人間の形態は周囲の自然環境のバランスを反映しており、それは私たち自然からのコミュニケーションであるばかりでなく、祝福の徴でもあるのです。人間と自然はバランスと連携のなかで映しあっているのです。


 もし人間が自分自身を虫たちのコミュニケーションに対して敏感にするなら、彼らを問題のメッセンジャーとして見なし、問題自体ではないと見ることが重要です。人間の病気や自然の病気に対処する時、問題になっている虫たちは人間と彼のテクノロジーによって征服されたり支配されたりするかもしれませんが、病気それ自体は隠れた理由が明らかにされるまで除去されないでしょう。虫たちが現われたエリアは、コントロール不能になるか問題が多くなりますが、私はあなたが探している答えのために、後ろに退いて、より大きな環境の状況を見つめてみることを提案します。もしあなたがまだ本当の問題を同定することに困難を抱えているなら、虫たちがどのようなやり方で人間や自然の形態と相互作用しているかを正確に観察してください。そこには、全体的な状況の中での答えを得るためにあなたが必要としている手がかりが横たわっています。


 自然と人間社会の両方において、巨大な生態学的な不均衡が強烈かつ生命を脅かすようなやり方で誇示されている場所の場合には、このことは自然が独自の憤怒と怒りから発して人間を故意に攻撃している状況だとは理解しないようにしてください。人間たちは、何らかの外的でパワフルな源によって破壊されている無垢な犠牲者ではありません。人間が惑星のライフサイクルに加わってからずっと、彼らが接しあうところでは、人間と自然はパートナーシップを結んできたのです。現在に至るまで、そのパートナーシップは、両方の側にとって原因と結果の一つであり続けてきました。この点で重要なことは、新しい共同創造的なパートナーシップのなかで私たちが結びつくことなのです。もう一度、人間の体は自然界との間にあなたが持っている直接的な連結だということを思い出して下さい。その連結を断ち切るための唯一の方法は、形態から霊を取り除くことです。しかし、連結が維持されている間は、人間は自然界で起こることは、人間の形態のなかに含まれている、問題となっている王国のなかで本質的に示されるだろうということを予想しなくてはなりません。これは自然の法です。形態の中で起こることは、形態の特定の側面に関するすべての相関する反映を通じて、本質的に共鳴するのです。

出典 “Perelandra Garden Workbook”by Machaelle Small Wright in 1987,Second Edition 1993.Published by Perelandra,Ltd. P.167〜P.180




今日は久しぶりの休日? で、久しぶりに雲風農園の手入れ・・・
というか、早生のタマネギを定植するために、ナスとバジルが植わっていた
ところを剪定ばさみで細かく刻んで、根っこだけ引き抜いて、
鍬すら使わず、小さなシャベルで適当に溝を切って、無肥料で定植。


あと、キュウリが植わっていたところも、籾殻を積んでいたら、
なかの株や雑草がいい具合に腐っていたので、適当に手で引き抜いて、
籾殻をかき分けて、今年の春に自家採種したスナップエンドウの種を播き、
さらに余ったスペースにカブを筋蒔き。


ただ・・・エンドウさんたち・・・ちゃんと発芽するかなあ?
ちょっとどころか、かなり心配。